モーツァルトのオペラ《イドメネオ》をめぐって
安田 和信(音楽評論家)
●《イドメネオ》---「オペラ・セリア」の有終の美---  モーツァルトの《イドメネオ》は、いわゆる「オペラ・セリア」の系列に属します。「オペラ・セリア」は「真面目な内容のオペラ」の意で、コミカルな内容をもつ「オペラ・ブッファ」とは異なります。「オペラ・セリア」は、主に古代ギリシャ・ローマ時代の神話に出てくる神々や実在の英雄などを主人公とする点で、17世紀初頭にオペラが誕生した時点から好まれていたジャンルでした。「オペラ・セリア」の主人公は様々な困難に遭遇して苦悩しながらも、それに打ち勝ち、徳のある行いを果たします。(それが最終的には自らの死を招くこともありますが...)このような内容をもつオペラは、その主要な受容層であった貴族に、彼らの階級のもつ「高貴さ」の所以を示すという機能がありました。  モーツァルトの活躍した18世紀後半は巨視的にみれば、この「オペラ・セリア」が「オペラ・ブッファ」に押されるかたちで衰退したとみることもできます。これを、貴族階級の没落と市民階級の台頭になぞらえてみることも可能でしょう。モーツァルト自身も《イドメネオ》以降のオペラ創作は、「オペラ・ブッファ」のほうへ傾斜していきます。そして、19世紀以降から現在にいたるまで、モーツァルトのオペラへの評価は主として《フィガロの結婚》、《ドン・ジョヴァンニ》といった「オペラ・ブッファ」のジャンルに集中していました。一方、「オペラ・セリア」は市民社会の「敵」である貴族階級を象徴するジャンルとして排除される傾向があったようです。そのような偏見が克服されたとき、《イドメネオ》は「オペラ・セリア」における最後の、そして最高の傑作としての姿を現すのではないでしょうか。
●あらすじ  全三幕からなるこのオペラの舞台は古代のクレタ。トロイア戦争終結後、クレタの王イドメネオ(テノール)が帰還途中で嵐に遭い、海神ネプチューンに誓約をすることでこの危難から救われます。その誓約とは、クレタ上陸後に最初に出会った人物を生贄に捧げるというものでしたが、上陸後のイドメネオが最初に見た人物とは息子のイダマンテ(ソプラノ/カストラート)だったのです。ドラマの中心はイドメネオにおける父親としての愛情と神への責務がせめぎ合う悲劇と言えるでしょう。  一方イダマンテは、囚われの身であるトロイアの王女イリア(ソプラノ)とひそかに愛し合うようになっていました。ところが、アルゴスの王女エレットラ(ソプラノ)もイダマンテを愛しているため、彼女はイリアに対し激しい嫉妬心を抱いています。この三者が織りなす愛憎劇もドラマの重要な要素なのです。  イドメネオの苦悩は第2幕以降で展開されていきます。父親の愛情が勝る彼は側近のアルバーチェ(テノール)の提案に従って、イダマンテをエレットラとともにアルゴスに避難させようとします。しかし、嵐と怪物の出現によって二人の出帆は不可能となりますが、これは誓約を実行に移さないイドメネオに対するネプチューンの怒りの表明だったのです。民衆たちは突然の遭難に疑念を抱き始めます。ところが、イドメネオは生贄を拒否することを神に宣言してしまうのです。  そして、第3幕でドラマはいよいよ核心に迫ります。イドメネオは大祭司に生贄の実行を迫られ、とうとう生贄がイダマンテであることを告白してしまいます。怪物の退治から戻ってきたイダマンテは父王の苦悩を悟り、自ら生贄になろうとするのです。しかし、生贄を実行しようとしたとき、イリアが身代わりを申し出、その瞬間、イドメネオ退位の代わりにイダマンテが新王に就き、イリアを王妃とすべしというネプチューンの神託が聞こえてきます。これによりクレタに平和が戻り、ハッピーエンドとなるのです。(ただ一人、エレットラだけが不幸ですが...)
●精魂込めた作曲作業  このオペラは、バイエルン選帝侯国の依頼によって作曲され、ミュンヘンの宮廷劇場(1752年開場、建築者の名前をとって「キュヴィリエ劇場」とも呼ばれます)において、1781年1月29日に初演されています。その時、モーツァルトは25歳の誕生日を迎えたばかりでした。ミュンヘンから指定された題材(アントワーヌ・ダンシェによるフランス語台本。アンドレ・カンプラ作曲によって1712年初演)に基づいて、モーツァルトの友人だったジャンバッティスタ・ヴァレスコがイタリア語台本を作製、それにモーツァルトが作曲するという作業は1780年の秋から始まっています。  彼が並々ならぬ意欲をもって創作に打ち込んだことは、父親レーオポルトとの往復書簡から推察されるところです。それは、既に配役を決められた歌手たちの能力と自分の作曲技術と秤にかけつつ、最大限の効果を発揮するようにアリアを仕上げるといったことに留まりません。劇的な推進力の妨げになる場面の削除や、歌われるものとして相応しくない語の差し替えなど、本来は台本作家の専権事項と言うべき事柄にまで、口を挟んでいます。オペラが真の劇性を獲得するためには、歌手とも大いにやりあい、とりわけ重唱曲では彼らの注文よりも作曲者の「自由意志」が尊重されるべきであると、きっぱりと述べているのです。まさに妥協を許さない天才的職人作曲家モーツァルトの徹底ぶりが窺えるのではないでしょうか。また、当時ヨーロッパ随一と謳われたミュンヘンの宮廷楽団のおかげで、緻密で多彩なオーケストレーションが可能になった点も特筆されます。
●様々な様式の融合  「オペラ・セリア」はもともとイタリアで発展したジャンルでした。モーツァルト自身もイタリアに赴き、このジャンルに属する《ルーチョ・シッラ》を本場で上演する機会を既に得ていました。したがって、《イドメネオ》がイタリアからの流れに沿った作品であることは間違いありません。一方で、題材の起源がフランスにあることも無視できない要素です。とりわけ、合唱の多用やバレエの場面の挿入などはフランスの様式を汲んだものという見方が成り立ちます。そして、ドラマの効果を高めるオーケストラの扱いは、ドイツの伝統を感じさせるのではないでしょうか。とくに、レチタティーヴォ部分において、オーケストラ伴奏による「レチタティーヴォ・オブリガート」の様式を多用し、歌手の感情表現をオーケストラによって補強した点は特筆に値します。  このように多彩な様式が一つの作品のなかで融合している点が《イドメネオ》の魅力なのです。それは、ヨーロッパ各地を旅して豊かな音楽経験を積んできたコスモポリタン、モーツァルトの面目躍如と言えるでしょう。  なお、18世紀後半には、オペラがドラマをないがしろにして、歌手が技巧を披露するだけの場になってしまうことへの反省が叫ばれていました。とくにクリストフ・ヴィリバルト・グルックによる1760年代以降の「オペラ改革」は大きな反響を呼び、モーツァルトにも強い印象を与えたと想像されます。グルックは「音楽は歌詞の召使い」という理念のもとで、音楽は歌詞の自然な表出を犠牲にしてはならないと考えていました。しかし、「音楽による劇」たるオペラにおいては、音楽の力こそがドラマの迫真性を高める源泉であると、モーツァルトは確信していたのです。
●近年における再評価  こうして出来上がったオペラは多くの識者たちを大いに魅了しました。モーツァルト自身も傑作と考えていたようで、ウィーン移住後もこのオペラを何度か再演しようと試みています。しかし、モーツァルトの生前には舞台にかけられることはなく、1786年に一度だけ私的な上演が行われただけだったようです。モーツァルト没後も上演機会は決して多くありませんでした。このオペラの評価が高まり始めたのは近年になってからで、とりわけ、ニコラウス・アーノンクールやジョン・エリオット・ガーディナーといった指揮者が優れた上演とレコード録音を果たし、いわば「《イドメネオ》ルネサンス」に彩りを添えたことは記憶に新しいところです。現在では《イドメネオ》の重要性を否定する人はいないでしょう。しかし、日本においては、まだ《イドメネオ》の上演に接する機会はそれほど多くはありません。したがって、この度の機会は、たいへん貴重なものとなるのではないでしょうか。
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