−本公演のききどころ

 まず今回のプログラムは、モーツァルトが開催した演奏会と同じ内容を再現するという世界的にみても珍しい試みであるということ(世界初かどうかは、完全なリサーチが不可能なので断言できませんが)。しかも《ハフナー交響曲》のように、複数のヴァージョンが伝承されているものも、その演奏会で使用されたかたちで演奏しようという徹底的再現を目指す、と言えるでしょう。

 18世紀風のキモは、まず演奏時間が長いこと、さまざまなジャンルの作品が取り上げられるなかでコンチェルトやアリアが中心を占めること、シンフォニーはむしろ添え物というかオードブルに相当するものだったこと、などが中心です。今回の企画はモーツァルトのものをそのまま再現するという意味で歴史的にさらに踏み込んでおり、類似企画とは一線を画すことは強調すべきではないでしょうか。
 また、モーツァルトが行ったこのコンサートは、ウィーン移住後間もない頃にクラヴィーア奏者、作曲家としての評価を確立すべく、満を持して行ったもので、おそらくモーツァルトにとって大きな意味があったと思われます。曲目を見てみると

 1)クラヴィーア奏者兼作曲家としての才能を披瀝するための最新作のコンチェルト

 2)イタリア語オペラへの能力の高さを示すべく、ウィーンで人気のあった歌手を起用しての
   新作アリア。

   その歌手たちは、モーツァルトの初恋の相手でもあるアロイージア・ランゲ、《後宮からの誘拐》で
   ブロンデを歌ったテレーゼ・タイバー、ベルモンテを歌ったヨハン・ヴァレンティーン・アーダムベル
   ガーの3人です。彼らはウィーンで高い人気を誇っていた歌手であると同時に、モーツァルトの友
   人でもありました。

 3)ザルツブルク時代に書かれながら、あえて取り上げられた自信作。
   《ポストホルン》セレナードからのコンチェルタンテ楽章、クラヴィーア協奏曲第5番が相当します。
   交響曲《ハフナー》は、ウィーン時代に書かれた作品ですが、ザルツブルクからの注文によって
   作曲されたセレナードから楽章を選んで交響曲に「変換」されたものです。

 4)即興演奏の能力を示すクラヴィーア独奏。
   フーガを好むヨーゼフ2世が臨席したために、フーガの即興も含まれていました。

 このようにプログラムを眺めてみると、ウィーンでの成功を目論むうえで自分の様々なプロフィールを垣間見せる戦略的なプログラムだったことは間違いないでしょう。実際のところ、モーツァルトの目論みは成功したようでした。1783年3月29日付、レーオポルト宛書簡(このプログラムを掲げられている書簡でもある)は、次のように書かれています。

「ぼくの演奏会の成功について、あれこれ語るまでもないと思います。たぶん、もう評判をお聞きになったでしょう。要するに、劇場はもう立錐の余地がないほどで、とのロージュも満員でした。なによりもうれしかったのは、皇帝陛下[ヨーゼフ2世のこと]もお見えになったことです。そして、どんなに楽しまれ、どんなにぼくに対して拍手喝采してくださったことか。皇帝はいつも劇場へおいでになる前には、帳場へ金一封を届けてくださるのが常ですが、そうでなかったら、もっといただけることを期待してよかったのです。なにしろ、皇帝のご満足は際限がなかったのですから。25ドゥカーテンを賜りました。」

また、『マガツィーン・デア・ムジーク』(5月9日号、ハンブルク)には、この演奏
会の模様がウィーン特派員(無記名)によって報告されていますが、その報告は次のようなもので、モーツァルト自身の報告の信憑性を裏付けています。

「著名なシュヴァリエ[騎士]、モーツァルト氏は国民劇場[ブルク劇場のこと]にて音楽会を催したが、そこでは彼の、大変愛好されている作品がいくつも演奏された。アカデミー[音楽会]は異常なほど熱烈な好評を得、二曲の新作協奏曲と他の幻想曲がモーツァルト氏によってフォルテピアノで演奏され、大喝采裡に迎えられた。われらが君主は、陛下のいつもの慣例に反し、演奏会の間中ご列席なさっておられ、しかも全聴衆は陛下と一緒にまったく一体となって拍手喝采したが、当地では同じような例はない。」
(1,727)